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音楽小説▶︎音楽映画の難しさ。「蜂蜜と遠雷」

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 恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」を読みました。読んでから後書きで知ったのですけど、これ7年もかけて連載されていた話なんですね。7年の結実…。以後、背表紙に書いてある程度のネタバレがありますのでご注意を。

 

 

 私は小説を読んでいるときに好きなシーンが二つあって、一つは「料理を食べているところ」、もう一つは「楽器を演奏しているところ」なんです。どちらも、読むという行為からは感じられない、味覚、聴覚という部分を、文字で表現するという、なんともジレンマを抱えたシーン。それだけに、書き手の個性が出ますし、想像に依拠させる割合が多い分、めちゃくちゃ美味しそうに感じたり、すごい音楽を聴いたかのような気持ちにさせられるわけです。それはもしかしたら実際よりも程度を超えたように。

 で、この「蜜蜂と遠雷」は、その楽器を演奏するシーンがめちゃくちゃ多い、私にとって贅沢な小説です。4人のピアニストがコンクールで戦う話なんですけど、上下巻という長編において、演奏シーンが体感8割。いや実際はもっと少ないはずですけど、そう感じるくらいに、ふんだんに演奏シーンが出てくるわけです。凄くないですか。ピアノを演奏している描写で、何千万文字も書けるっていうのがすごい。私なら「たけしはピアノを引き始めた。めちゃくちゃ上手だ。激しい曲なのに全然間違えない。手が早い!すごい!上手ー!」とかもうそれが限界。それを何千万文字で表現。すごい。

 良い音楽を聴いたとき、ぞわっ、と鳥肌が立つこと、ありますよね。あれと同じ感じをとあるシーンで感じたんですよね。これは、実際に良い演奏を聴いたのと同じくらいの体験をしたということです。それで興味を持って、私はクラシックは全然聴かないんですけど、この小説に出てきた曲は是非聴いてみたいなあと思いました。そうしたら、都合よく、映画化されているじゃないですか、蜜蜂と遠雷

 これは辛抱たまらないと見てみたわけですけど、残念ながらこれは私にはダメでした。なぜなら、肝心の演奏シーンがどうしても頭に入ってこない。出演者の方が、当然ピアニストではないわけで、すごい超絶演奏が流れている中で、手元のピアノは映っていなくて、手元を映さず弾いているフリをする演技なのですが、それがどうしても違和感がある。激しい曲が多いだけに、ブワンブワン体や手を震わせてるわけですが、その演技がどうしても「この演技大変だっただろうなあ」と思えてしまうわけです。そのせいなのかどうなのか、演奏もあまり良い演奏には感じられなかったのです。

 そういった意味では、ソラニンという映画で、出演者たちが演奏するシーンがあるんですけれど、あれはとても良かった。後で演奏したものを重ねているんでしょうけれども、明らかに出演者たちもある程度の演奏はできる状態で挑んでいる感じで、違和感がそれほどなかった。何ならベースの人はサンボマスターのベーシストなのでそりゃあそうなんですけれど、宮崎あおいさんも、桐谷健太さんも、ちゃんと演奏してた。多分、ピアノとバンドという形式の違いがあって、バンドのほうがごまかしやすいのは絶対そうなんでしょうけれど。クイーンのボヘミアンラプソディーも全然違和感なかったですし。あれ、歌は主役と別の人が歌っているって知ってました?私は全然気付きませんでした。

 話がふわふわしてますが、とにかくそういう感じで成功することもありますけれど、概しては、音楽映画は難しいとおもいます。事実は小説より奇なりと言いますが、小説は映像化しないほうが奇なことが多い気がしています。孤独のグルメが人気が出たのは、映像化しても、味を感じることができなかったからだと思うんですよね。あれが実際に見ている人の前に食事が出てくるとしたら、「それほど美味くないじゃん」となってしまって、興醒めしてしまう。食べられないからこそ、「うまそう〜!」っていう状況が想像の中で育って、美味しく感じさせているのです。それと違って、音楽映画は、小説が想像で補っていたものの答えを、ある程度具現化してしまう。そのため、そこに求められる精度は、非常に高くなってしまうのです。

 だから、音楽映画は、小説をベースにしたりせず、本当に音楽で勝負する映画にしたほうが良いと思います。出演者に本当のミュージシャンを持ってきて、本物の演奏で勝負する映画。そういうの見てみたいですね。あるのでしょうか。誰か知っている方がいましたら、是非教えてください…!