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マスク2枚が一番良い可能性

 世界各国が「数十万円を給付」とか「普段の給与の全額分給付」とかやっている中で、安倍総理が世界に後れを取るわけにはいかないと満を辞して立ち上がり「日本は全国民にマスクを2枚渡す」と声高らかに宣言したわけです。

 これを決めるまでに、国の中枢での会議があったわけで、「イタリアは30万円らしいです、いかがいたしましょう日本は」「マスクで行こう」「えっ」「マスクだ」「えっ首相落ち着いてください」「わかった2枚」「首相」というようなやりとりが、あったのか無かったのか、いや多分マスク以外にも給付を考えているとは思いますので比べちゃいけないんですけど、時期が悪かった、日本国民全員がズコー!!ってなったわけです。

 でも、そんな失笑を買うかのようなこの「全世帯にマスク2枚給付」、世界に誇る日本のトップ中枢が本気で考えた実は最高の政策という可能性もあるのかもしれない。そうポジティブに捉えてみることにしましょう。

 他国は現金を給付しています。これは今まさに現金が枯渇して仕事や衣食住に困っている経済をなんとか回そうとする理論です。でも、これはつまり、現金を給付▶︎経済を回す▶︎人が動く、ということです。つまり感染リスクは上がる政策にままならない。

 それに対して、この日本のマスク2枚制作は、全然経済が回りません。仕事はできないままだし、衣食住は困ったまま、家でひたすら嵐が去るのを待つしかない状態を、継続させます。そしてプラス、マスクによって感染防御力があがる。

 観葉植物が冬、弱ったときに、焦って水をやったり、肥料を与えたりすると余計に弱って死んでしまいます。そんなときは、水を控えめにして、冷たい風を避けて、あまり動かさないようにして、少しずつ暖かくなるのを待ちます。他国の現金給付は、この肥料を与える政策かもしれず、日本のマスク制作は、風を避ける政策なのかもしれません。

 だからといって、明日にも明後日にも仕事を失うかもしれない、食事が食べられなくなるかもしれない状況の方に、マスク2枚が届く光景はあまりにも悲劇なので、本当に困っているところには現金が届くようにする必要はやっぱりあります。問題はその本当に困った人を抽出するやり方、言うなればどこまでを助ける、助けないの線引きを、この動乱の中でうまくやれるか、ということでしょうけれども、そこに政治力が問われるんでしょうね。

 

 

人は近い人を攻撃する

 Twitterで、「普通の大学生には最終学歴を馬鹿にされるけど、東大生には馬鹿にされない。質の高い教育は大事だ」と話している人がいました。

 この話を聞いて、小池一夫さんの本に書かれていたことを思い出しました。

 「-この人たちは普段弱い立場の人間なのだろうな、弱いからこそ弱い立場の者の瑕疵が許せないのだろうなということです。弱い人がより弱い人を傷つけているのです」 小池一夫「人生の結論」

 私はこのツイッターのコメントと、小池一夫さんのこの理論は、真意を得ていないと思いました。私が思うのは、弱い人が弱い人を傷つけるとしても、強い人も強い人を傷つけるのです。つまり、人は、自分に近い人と張り合うのです。

 というのも、人が自己承認を保つためには、ライバルと争い、勝つ必要があるからです。人というより、どんな生き物もそうですけど、近い存在、同じような存在に対して、縄張り争いが必要になります。猫は猫どうし喧嘩しますが、猫とトラは喧嘩しないでしょう。トラは猫を超然と見つめるだろうし、猫はすぐに逃げると思います。自分と似た境遇でのポジションを争う必要がない時に、人は攻撃性を失うわけです。

 だから多分、東大の人は京大の人を攻撃すると思います。野球選手も、1軍選手は2軍選手を攻撃するのであって、高校の野球部を馬鹿にしたりはしないです。

 だから、逆に言えば馬鹿にされたり、攻撃されたとき、その人にとって自分はライバルだと思われてるということになります。自分からみて立派だなと思う人に攻撃されたのなら、それはむしろその人に認められているのかもしれません。逆に、自分が認めていない人に攻撃されるようでは、その人と同じようなところに自分がいるということなのかもしれません。

 だから、最初のツイッターの方は、ライバル視されていないことを不安に思ってもいいのかもしれません。東大の人に、お前は学歴が〜と言わせたら、それは誇っていいことでしょう。そのくらいしか言うことがないくらい、追い詰めてるわけですから。

 いや、その人がライバル的な存在だったらですけど…そんなポジションを張り合う必要のない世界が一番です。世界は平和であれ…!

1滴の採血でわかるコロナウィルス検査

 パスタにビール入れて作ったら美味いんじゃないかと思ってウキウキしてやってみたら、すごい苦かった。

 さて、コロナウィルスの検査といえばPCR検査が有名だけれど、ウィルスに「感染している/いない/感染したことがある」を調べる検査は、採血検査によるIgG/IgM抗体検査のほうが一般的だと思う(インフルエンザ除く)。

 実際、新型コロナウィルスIgG/IgM抗体検査キットの開発も進められていて、すでにそれなりに高い感度と特異度のものが作られているようで、試験的な導入は始まっているらしい。これは採血でわかる検査で、PCRを回すよりも簡便なはずだ。何より、この検査は「今感染しているかどうか」だけでなくて、「既感染かどうか」もわかる。つまり一度コロナウィルスに罹患して、治ったことがあるのか、その人がコロナウィルスに対して免疫を持っているかがわかる。

 軽症の人に検査を拡げると、検査をするために集まる「密集」の問題や、医療リソースの問題があるけれど、そもそもすでに病院にいる医療者に検査をする分には密集の問題は無いし、スタッフ全員に採血をすることは多分それほどの苦労ではないと思う。で、あればスタッフがどの程度の割合頻度で抗体を持っているか調べることは意味があるのではないか。

 既感染パターンをとった医療者は、予防接種の無いコロナウィルスに対して、現時点で最強の防御力をもった状態で診療に当たることができる。2度感染する可能性も無いわけではないが、少なくとも確率は下げられる。理想論は、「医療者は感染しない状況での治療を行う」ことで、感染症の専門医もそう謳うけれど、現実的には医療者の感染リスクは非常に高い。そんな中で、一度抗体を持ったスタッフが前面に出て、未感染の医療者、場合によっては高齢や持病を持つスタッフは、その他の疾患の治療に専念する、そういうチーム分けが考えられないだろうか。免疫を持つ医療者が「俺…もう一度、乗り越えてるからさ」と超然とした顔で前線に立ち、免疫のない医療者は「あとは頼むぞ…俺たちは、この国を守る」と、一般の入院患者を診るわけだ。

 ただ、それを行うのは時期が必要で、もっと世界に蔓延したタイミングでないと意味がない。さすがに現時点で、日本の医療者の多くが既感染パターンをとることはないと思うから。もしすでに、多くの医療者が実は感染していて、症状がなく、かつ感染力のあるままで仕事をしていたら、入院患者や外来受診者から肺炎患者が続発するはずだ。

 ただ、今の医療者はマスクや手洗いを徹底しながら仕事をしているので、仮に無症状キャリアとなっていても、患者に感染させずに医療ができているのかもしれない。しかし、今の時点では、「無症状キャリア医療者が感染力がない」証明は難しい。そんな臨床実験ができない。であるから、やはり無症状でも陽性とわかった医療者は休むしかない。また、すでに治癒済みの既感染パターンが出たとしても、いつかは感染していたはずだからと、遡って診療した患者や接触した人を全員調べるのかということになって、余計に混乱しそうだ。

 だから、やっぱり「全員調べる」というのは、もっと世界にウィルスが蔓延して、感染して治癒済みという状態の免疫バリアがある人たちが、それなりの人数揃っている世界において行うべきかもしれない。それがいつ来るのか、実はもう来ているのか、そこまで蔓延せずに収束できるのか、それは全然わからないけれど。

 ちなみに、このIgM/IgGの検査、器具が揃えば、1滴の採血で、10分くらいで行えるらしい。簡便、速い。だから、コロナウィルスが収束しなければ、この検査が爆発的に広まるかもしれない。なんなら医療に限らず、「毎日この検査を出勤時に行って、陽性なら帰宅、陰性なら仕事」という社会が来るのかもしれない…。そんな社会、嫌だけれど…。

2020/03/31追記

抗体が出来たら最強の防御力、って書きましたけれど、抗体が出来た方が実際もうコロナにかかりにくくなるという証明はされてないわけで、検査で既感染だから大丈夫とも言えないですね。この検査の感度、特異度もはっきりしていないという意見も多く、どの程度広まるものかわかりません。少なくとも上記のような出勤時に検査して…というような使い方は難しいようです。

 

音楽小説▶︎音楽映画の難しさ。「蜂蜜と遠雷」

 恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」を読みました。読んでから後書きで知ったのですけど、これ7年もかけて連載されていた話なんですね。7年の結実…。以後、背表紙に書いてある程度のネタバレがありますのでご注意を。

 

 

 私は小説を読んでいるときに好きなシーンが二つあって、一つは「料理を食べているところ」、もう一つは「楽器を演奏しているところ」なんです。どちらも、読むという行為からは感じられない、味覚、聴覚という部分を、文字で表現するという、なんともジレンマを抱えたシーン。それだけに、書き手の個性が出ますし、想像に依拠させる割合が多い分、めちゃくちゃ美味しそうに感じたり、すごい音楽を聴いたかのような気持ちにさせられるわけです。それはもしかしたら実際よりも程度を超えたように。

 で、この「蜜蜂と遠雷」は、その楽器を演奏するシーンがめちゃくちゃ多い、私にとって贅沢な小説です。4人のピアニストがコンクールで戦う話なんですけど、上下巻という長編において、演奏シーンが体感8割。いや実際はもっと少ないはずですけど、そう感じるくらいに、ふんだんに演奏シーンが出てくるわけです。凄くないですか。ピアノを演奏している描写で、何千万文字も書けるっていうのがすごい。私なら「たけしはピアノを引き始めた。めちゃくちゃ上手だ。激しい曲なのに全然間違えない。手が早い!すごい!上手ー!」とかもうそれが限界。それを何千万文字で表現。すごい。

 良い音楽を聴いたとき、ぞわっ、と鳥肌が立つこと、ありますよね。あれと同じ感じをとあるシーンで感じたんですよね。これは、実際に良い演奏を聴いたのと同じくらいの体験をしたということです。それで興味を持って、私はクラシックは全然聴かないんですけど、この小説に出てきた曲は是非聴いてみたいなあと思いました。そうしたら、都合よく、映画化されているじゃないですか、蜜蜂と遠雷

 これは辛抱たまらないと見てみたわけですけど、残念ながらこれは私にはダメでした。なぜなら、肝心の演奏シーンがどうしても頭に入ってこない。出演者の方が、当然ピアニストではないわけで、すごい超絶演奏が流れている中で、手元のピアノは映っていなくて、手元を映さず弾いているフリをする演技なのですが、それがどうしても違和感がある。激しい曲が多いだけに、ブワンブワン体や手を震わせてるわけですが、その演技がどうしても「この演技大変だっただろうなあ」と思えてしまうわけです。そのせいなのかどうなのか、演奏もあまり良い演奏には感じられなかったのです。

 そういった意味では、ソラニンという映画で、出演者たちが演奏するシーンがあるんですけれど、あれはとても良かった。後で演奏したものを重ねているんでしょうけれども、明らかに出演者たちもある程度の演奏はできる状態で挑んでいる感じで、違和感がそれほどなかった。何ならベースの人はサンボマスターのベーシストなのでそりゃあそうなんですけれど、宮崎あおいさんも、桐谷健太さんも、ちゃんと演奏してた。多分、ピアノとバンドという形式の違いがあって、バンドのほうがごまかしやすいのは絶対そうなんでしょうけれど。クイーンのボヘミアンラプソディーも全然違和感なかったですし。あれ、歌は主役と別の人が歌っているって知ってました?私は全然気付きませんでした。

 話がふわふわしてますが、とにかくそういう感じで成功することもありますけれど、概しては、音楽映画は難しいとおもいます。事実は小説より奇なりと言いますが、小説は映像化しないほうが奇なことが多い気がしています。孤独のグルメが人気が出たのは、映像化しても、味を感じることができなかったからだと思うんですよね。あれが実際に見ている人の前に食事が出てくるとしたら、「それほど美味くないじゃん」となってしまって、興醒めしてしまう。食べられないからこそ、「うまそう〜!」っていう状況が想像の中で育って、美味しく感じさせているのです。それと違って、音楽映画は、小説が想像で補っていたものの答えを、ある程度具現化してしまう。そのため、そこに求められる精度は、非常に高くなってしまうのです。

 だから、音楽映画は、小説をベースにしたりせず、本当に音楽で勝負する映画にしたほうが良いと思います。出演者に本当のミュージシャンを持ってきて、本物の演奏で勝負する映画。そういうの見てみたいですね。あるのでしょうか。誰か知っている方がいましたら、是非教えてください…!

咳をしている看護師さん

 昨今、何らかのウィルスが流行ってるので、咳をしようものならそれはもう大変な目で見られてしまうのですが、でもウィルス以外の病気でも咳はしますよね。

 例えば、咳喘息といって、喘息持ちの方が咳が止まらないこともあるわけですが、そういう方は今はもう電車にも乗れないくらいで、喘息ですっていうシールを貼ったりしているそうです。でも、それでも肩身が狭いわけです。だから、咳をしている方がいても、ウィルスだ!と決めつけてはいけない、そうすることは咳ハラスメントにもなりかねないわけです。

 ただ、喘息のシールのない方が、ゲフンゲフンと咳をしていたら、もしかしたらウィルス感染なのかもしれないのは、確かにその通りです。相手が知らない人であれば、その見極めは外見からは難しい。そんな中、仕事をしていたら、一緒に仕事をしていた看護師さんがゲフンゲフンと咳をしていたんですね。

 こ…これは…!喘息とか、だよね!?今の情勢で、万一普通に体調が悪くて、咳が止まらない状況だったら、一般企業でも休まないといけない中で、医療者が咳をしたまま仕事なんてめちゃくちゃ危ない。それはこの方もわかっているはず。だからこれはきっと持病の喘息なんだと思う!

 でも、でも、不安は消えないのです。それはスタッフを信頼していないからではなくて、「私が休んだら病院がヤバイ」という現状も理解しているからです。責任感があるからこそ、簡単には休まないという状況も理解しているのです。だから、ここはチームの仲間として、「喘息ですか?」と確認したほうがいいのか。でもそれは咳ハラスメントにならないのか。喘息ですかと聞くことは、間接的にコロナじゃないよね?と聞くことになる現状、それはハラスメントにならないのか、やっぱりスタッフを信頼していないことになるのではないのか。しかし万一どうしても休みを取りたいと言えなくて無理してしまって仕事に来ているとしたら、ここは強引にでも休ませないといけないはず、どうする、聞くべきか、聞かざるべきか、どうする。

 そうソワソワソワっとしていたら、一番上の看護師のボスが、その看護師さんにさらっと「大丈夫?」と聞きました。すると、「大丈夫です、喘息なんです」とお答え。

 そうか…それで良かったんや…。

 コロナか、喘息か、そんな問題じゃないんだ。咳をしているのはいずれにせよ辛いことなんだから、大丈夫か心配して慮ることが一番大事なんだ。その結果、この看護師さんも「喘息ですっ」て言いたかったんだと思うし、そのキッカケにもなったんだ。

 最近外来なり病棟なり、全て「コロナかどうか」にばっかり目がいってしまっていて、他の病気の可能性とか、そもそも患者がエライのか辛いのかそういうことが等閑になってしまっている気がします。もちろん、「コロナかどうか」は非常に大事なことなんですけど、それに感けすぎないようにする、余剰のパワーが必要だなあと思いました。

 

サメは悪い奴じゃ無い

 レストランがあって、そのレストランは海に面しているというか、海の上に立っているというか、浮かんでいるというか、しっかり言えば船の形を模した海の上に立っているレストランで、そこのウリ?なのかわからないけれど、床が一部ガラス張りになっていて、その下には海面があって、ライトアップもされているので、食事を楽しみながら、時折そこを通過する魚たちを見ることができるのです、ということでした。

 ということで時々小さな黒い魚がフワッと動くのを謎の野菜やスープを食べたり飲んだりしながら、視界の片隅で捉えていたわけですが、その終盤、友人がアアっと大きな声をあげたのです。それに引っ張られるようにガラス床を見ますと、ノソリ、というか、ツルリ、というか、フルワリ〜というような感じで、でっかい魚が通っていったのです。それは大きさで言えば、多分イルカ?くらい。そしてその見た目は、完全にサメ。あの漫画とかで見るような、サメの顔をしていたわけです。シャーク!シャーク!と喜んでいると、お店の人が「サメ?見た?」と、時々来るんよ、サメ、みたいな雰囲気。我々もテンション上がって「イェアーー!!!イッツビィーッグ!」みたいな感じだったので、きっとお店の人は「このジャパニーズたちサメに対する食いつきが半端ねえ」と粋に感じられたのか、「オッケー5分待ってくれ、そうしたら俺が君たちにたくさんのサメをShowTimeだぜ」みたいな感じで去って行きました。

 私たちは訝りました。「サメを?見せる?たくさん?どうやって?」と訝りました。「このままこのガラス窓を覗いていたら、さっきの店員さんがバシャバシャとサメを追い立てながら現れるのか?」「いや最悪サメの着ぐるみをしたあの人がシャーク!と現れる可能性も」と訝っていました。寸後、店員さんが「マタセタナ!カモン!」と部屋の外に案内してくれまして、船の形をしたレストランですので、船縁に寄っかかるようにして海を見ますと、そこの海面には大量のパンが浮かび、そのパンを狙うように何匹ものサメがワッシャワッシャと踊り泳いでいたのです。言うたら、鯉に餌をあげたときみたいな感じ。あの鯉がイルカぐらいの大きさのサメになった感じ。

 そのダイナミックな光景に驚き、珍しいものを見れたと驚いたのも束の間、こんなにこの辺り、サメがいるんだ、と怖くなったわけです。なぜならこの辺りでシュノーケリングもしたし、カヤックもしたし、泳いだし、というわけで、このサメに遭遇していたとしても何ら不思議では無い、その場合我々の腕の一本や二本は持っていかれてた可能性は否定できない、どういうことだ、リゾートと思われていたここは魚類と哺乳類がぶつかりあう修羅の場であったのか。友人と「この大きさのサメだったら勝てるだろうか、マジで戦ったら多分ぎりぎり相打ちくらいはできるかも、いや陸上なら勝てるがやはり水中では奴らに利が」と真剣に討論をしつつ、店員さんに「危険じゃ無いのですか」と聞いたら、「ノウノゥ彼らはとってもフレンド。ノーデンジャラス」と嬉しそうで、人を一切襲うことは無いそうで、サメだから危険だなんてそんな安易な考えはもう捨て去るべきなんだ、すまなかったな、シャーク。そう深くうなづいた!!

マンゴー

 さて今旅行中なのですが、私の奥さんはマンゴーのアレルギーがあります。

 というのは、マンゴーを食べるたびに体に蕁麻疹がでて痒い痒いと号泣しながら、無我夢中で蕁麻疹を掻き毟る、というわけにもいかず、というのは掻いたらもっと酷くなることがわかっているので、しかしその忘我の痒みに無抵抗でいるほどに強靭な精神は備えず、たどり着いたせめてものの抵抗、それがそーっと痒いところをペシペシと叩くという行為、そのわずかな抵抗に彼女最大限となる一縷の望みを託して、痒みという辛みと戦う妻の姿は宇宙からの侵略者たちに竹槍で挑もうとするヒトの悲壮感すら漂い、私は毎度涙を禁じ得ず、「どうしてそうなるのにマンゴー食べちゃったの」と誰しもが思い描く質問を毎回するわけですが、彼女は涙を拭いて、それでも嬉しそうに言うのです、「だってめちゃくちゃ美味しいんだよ」と。

 そうなるともう仕方がない、彼女はもう止めることはできない、なぜならマンゴーはめちゃくちゃ美味しいので、もうこれはどうしようもないわけです。そこで、私はもう彼女の盾になる。普段の生活においてマンゴーが簡単に入手できるほどハイカラな日常ではない私たち、そこに潜むリスクはほぼ無いと考えて良いわけですが、今この旅行中においては話は違う。そこら中に奴は潜んでいる、そして隙あらば私たちの眼前に躍り出て今こそ我を食うべき時よと無防備にも痴態を曝け出す。そうなれば私たちに抗う術はもうないわけです。つまり必要なのはリスクヘッジ。奴をこの世界に登場させない。それはこの南国において、祈りにも似た、希望なのです。

 そうして朝ごはんを食べていると、ウェイターさんが「ジュースのサービスアルヨー、オレンジ、パイン、パパイヤ、アーンド…」 

 頼む。ノーマンゴー、プリーズ。ここにマンゴーが続いたら、もう我々は大海流にのまれ翻弄されマンゴージュース美味いと空に吠えることしか出来なくなってしまうから。祈り、通ず。

 「ヲーターメロン」

 私は妻を見た。彼女は少しだけつまらないそうに、「じゃあ、ヲーターメロンプリーズ」と呟いた。それはもう独り言のように。この彼女の瞳孔を通過するカラフルな世界が灰色になっていくのを私は視た。でも、これでいいんだ。幸せは最高であることじゃない。最低でも、最高でもないところが、ベストなんだ。

 美味しい朝ごはんを終えた。私は安堵とともに、青い空を見上げた。雲は固定されたように動かない。波の音だけが聞こえる。時の止まった世界で、私は気がついた。時間を、盗んだのだ。妻はもうそこに居なかった。時は止まってなんて、いなかったんだ。

 「見て!切ってくれた!」

 妻は嬉しそうに皿を私に見せてくれた。完全なるマンゴー。そこには完全なる、マンゴーがおよそ20切れはあろうかと乱立していた。光に反射して、黄金に輝いていた。そして妻の笑顔も、それはもう光に迸っていた。

 幸福とは何かを乗り越えた先にあるのかもしれない。一緒に行こう。私はマンゴーを食べた。でも、少しでも。私はそれほどマンゴーが好きではないのだけれど、一生懸命たくさん食べたのだった。